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複雑性PTSDの治療を通じて見た親役割と人の来し方行く末について

複雑性PTSDの治療を通じて見た親役割と人の来し方行く末について ママのセルフケア

前回の記事で、幼い頃の生活環境が成人してからの私の人生に大きな影を落としたという話をしました。

幼児~学童期の家庭内外の環境が人生に生きづらさの影を落とすまで
以前、佐々木正美先生の「子どもへのまなざし」三部作について書いた中で、精神科医による特別な手当てが必要になった子どもの話...

当時の状態を説明する軸となったのは複雑性PTSDという概念で、抑うつ状態、侵入症状、希死念慮、解離、自己破壊的な行動が入れ替り立ち替りあらわれて、生活が立ち行かなくなったのが大学生の頃。その状態である以上、そこから出発するしかないのが当時の私の現実でした。

今回は治療の過程で見た親役割のお話を、読書遍歴もあわせて紹介します。

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治療を通じて見た親の役割

私の治療に主に関わったのは、私が師匠と呼ぶところの精神科の医師です。師匠は当時大学病院の勤務医で、児童青年期やPTSDを専門としていました。

師匠と出会う前は、大学の保健管理センターと入院病棟を持たない医院にお世話になっていましたが、そこでは手に負えない状態と判断され、紹介されたことがきっかけで、長いお付き合いが始まりました。

生きていることが何より大切

師匠の診察室にたどりついても、最初の5年はほとんどが嵐の時期でした。次々と表出される症状や行動に応じて診断は一定の範囲でくるくると変わりましたし、嵐をやり過ごすことに精一杯だったと思います。

嵐の時期は「次の診察に必ず来ること」が私に与えられた約束でした。有り体に言えば、次の診察まで余計なことはせず生きてろってこと(←雑!)

実際は、お腹にぽっかり空いた大きな大きな風穴が苦しくて、破滅的な努力をして余計に苦しくなることを繰り返していました。しょっちゅうぶっ倒れてましたし、生傷が絶えませんでした。

もちろん当時の私自身、頭では休養(十分な食事と睡眠を含む)がなにより大切だということは知ってたんですよ。でも何もしないと足元からわき上がる不安に呑まれそうになるから、姑息的な対処として色々とやらかしていたのが当時の状態でした。

不安を不安そのものの形で抱きかかえておける余裕はまったくありませんでした。

ありのままを見届ける

それでも時々訪れる凪の時期、師匠は私を育て、私は師匠が私を育てるのを眺めていました。一面では生殺与奪のすべてを預けていたとも言えますし、別の一面では信頼しきれずに警戒していたとも言えましょう。

師匠は私が尋ねるまでは多くを語らず、私の亀のような歩みを見守ろうとしていたように思います。私が遅れると少し先に立ち、黙って見ていました。手を引いてもらった記憶はありません。時々、ものすごく分かりにくいヒントが与えられる時もありましたが、私がそれに気づくのは、ヒントを与えたことを師匠自身が忘れてしまった後でした。私にとっては大発見だったので、師匠が「そんなこと言ったっけ」と言うたびにイラッとした記憶があります。

師匠がいつも何を考えているのか、どんな視座に立っているのかを知りたかった私は、何冊も何冊も本を読みました。この時期の読書体験は、私の現在の人生観と子育て観の基礎となっています。

私が本を読み漁るタイプなせいか、この15年の間、教育らしいことをされた記憶はありません。PTSDやアディクションなどの当事者向けの書籍には、治療の一環として心理教育があると書かれており、「ほほう!」と思った後に、「よその人はこんなにきちんと教えられてるの?」と驚いた私です。

私は症状に対する対処はたいてい本を読んで知りましたし、師匠は、誤解や理解不足はもちろんフォローしてくれましたが、基本的にはほったらかし。私は発見を聞いてもらえるのが嬉しくて勝手に先に進んでいきましたが、上手に掌で転がされてたとも言えます。お釈迦様の掌の中で得意がる孫悟空のようなものです。

神様のまなざし

そう、この時期、私の目には師匠が全知全能の神様みたいに映っていました。いわゆる理想化というやつですね(はずかしー)。

この時期の記憶はいまいち完全ではなく、頭の中で映像化される当時の師匠には顔がありません。だからどんな表情でこちらを見ていたのかは思い出せないんですよね。残念。

まあ、神様を直視すると目が潰れるとも言いますし、これでいいのかもしれません……言いません?言うよね?

現実に軟着陸する

5年ほど経ったある日、私は師匠が神様ではなく、ただの人間であったことに気づいて泣きました。

それを教えてくれたのは会話の中で感じられる違和感でした。定義や感覚まで丁寧に解きほぐしてみても会話が噛み合わず、うんざりした顔を見合わせることが繰り返されるようになりました。

師匠は知識も経験もあり、その当時の私の頭の中についても誰より理解していたはずなんです。そんな師匠でも完璧な理解はできず限界があり、必ずしも私の期待に応じられるわけではありませんでした。

私がそれに気づいた瞬間、神様だった師匠はただの人間になりました。それがすごく泣けました。

師匠はその現象がD・W・ウィニコットの言う脱錯覚だと教えてくれました。

ウィニコットの脱錯覚とは

ウィニコットは、乳児から幼児の精神分析を研究した人です。

脱錯覚とは、母親と完全なる一体感を覚えて万能感を持っていた乳児が、母親が次第に不適応を重ねることで万能感を脱却し、現実を認識できるようになる過程を指します。

その概念を与えられて初めて、5年もかけて育てられ、ようやく現実の中に足場を得たことに気づきました。

ほどよい母親という役割

その後の師匠をよくよく観察すると、知識も経験もあって聡いように見えて、実は鈍いところもあるし時々不謹慎な発言もする、本当にただのおっちゃんだったことが分かりました。

安定した対人関係を維持することが困難な当時の私の性質を考えると、治療的な関係を5年間も維持して支え続けたという面では有能で、論文なども書いているからそれなり頭のいい人だとは思うんですよ。

でも反面で、しつこく試し行動をした患者(←私)と怒鳴り合いの喧嘩をして本気でへこんだり(私の方は「うわぁおっさんマジギレした…」と思ってました)、「N井先生とこれっくらいの距離で飲んだことある!」とキャピキャピした面を見せてみたり(なぜ自慢したし)と、地が透けていることも実はけっこうありました。

情緒の発達という文脈で捉えると、師匠が完璧ではないことが良い方に作用したのだと思います。

先述のウィニコットは、乳幼児の精神的な発達を理解するのに役立つ概念をいくつも提唱しており、その中に「ほどよい母親」(good enough mother)というものがあります。

ほどよい母親とは、乳児の欲求に適切に応えようとはするけれど、時々反応が遅かったり、とんちんかんなこともやらかす普通の母親のことで、母親がこのような不適応を重ねることで乳児が脱錯覚できるというのは先に書いた通り。

師匠は「僕はずっとあなたに振り回されてただけだからね」と嘯くので、「ほどよい母親」役割が意図的なものか偶然果たされたものか、本当のところは定かではありません。

でも私は、そんな師匠の佇まいから、親役割の何たるかを教えてもらったと思ってます。

ユーモアの効能

もうひとつ重要なこととして、ユーモアの効能も教えてもらいました。

先ほど「時々不謹慎な発言もする」と書きましたが、医者がそれ言っちゃあかんやろレベルのブラックジョークや、だだ滑りの冗談が師匠の口から飛び出すことがありまして、それでついニヤッと笑っちゃって深刻さを手放せたことが何度もあります。深刻に悩んでるときってどうしても視野が狭くなりがちですが、笑っちゃうと囚われた状態から一瞬自由になれ、視界が広がったり深く呼吸ができるようになったりするのを感じました。

育児ってすぐ詰んだ心境になるから、これほんま大切な発見だと思ってます。

おしまいの日は突然に

その後も変わらず、師匠は私の亀の歩みを見守っていました。私は、師匠が私を眺めているのを、さらに斜め上から眺めていました。いつもどおりの淡々とした穏やかな風景がそこにはありました。

でも、おしまいの日って本当に突然やってくるんですよね。

ある日、診察室のドアを開けた私の前には、師匠ではない医師がいました。師匠、倒れたんですって。脳出血だったそうです。

「えーなにそれ?医者の不養生にも程があるわ」「次の診察には必ず来るって約束押しつけといて、自分は何やってくれちゃってんの」と、ひと通りの悪態が頭の中を通りすぎた後、こんなにもあっけなく一方的に終わるものかと思いました。

でも同時に、人の世の移ろいとはそんなもんかなとも思いました。

ただのおっさんの師匠と現実の中で出会った私は、師匠の存在がだんだんと小さくなっていく様子を何となしに見ていました。子どもの先に立って子どもを見守っていた親は、いつかは親よりも先を歩いていく子どもの背中を見るようになります。親には到達できない地平がそこにはあります。親が子どもの行く末を見届けられないことは、生物学的に半ば運命づけられているようなものだから仕方がないとも思いました。この世には順番がある。

誤解のないように書いておきますと、師匠は私の前から突然消えて、1年ほどして突然戻ってきました。診察室のドアを開けたらいた。私は1年越しの悪態を師匠に投げつけ、師匠は曖昧に笑っていました。本心は「祝・生還」だったのに、反抗期の心性とはままならないものだと思います。


生還したとは言え、師匠からかつての頭の回転の早さはあまり感じられなくなりました。診察室の中にあった独特の空気感も少し変わり、以前ほど緻密な結界は張れてない感じがします。

(繰り返しますが、オカルト的な表現は、すべて心象風景ですので!)

だから思うんですよね。

人はそもそも完全ではないのに、その上さらに加齢や病による困難を引き受けながら、それでも傍らに立ち続けることに、いったいどれくらいの覚悟が必要だったのだろうかと。

いまだに「どうして戻ってきたの?」とは聞けてません。きっと、本当のおしまいの日が来るまで聞けないと思います。

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そして母になる

このような過程を経て、私は親になりました。

信頼できないものであったこの世界に、まっさらな新生児を召喚するとは、なかなかに業の深い話だと思います。

この世に絶望させずに育てることができるのかと何度も何度も考えたし、少なくも娘が大人になるまでは、師匠と同じように「ほどよい母親」として傍らに立ち続ける覚悟が要ると思ってました。

親役割のモデルを持てたという意味で、この15年余りがあったことは幸いだったと思います。それでも実際に親の立場になって丸3年が経ってみると、想像していたよりはるかに大変で、喜びや愛しさもあるけれど毎日てんやわんやです。

次回はそんな、治療のその後の子育てのお話をします。

成長過程のトラウマを乗り越えたその先で親になるということ
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